「ぼくにはどうして『おかあさん』がいないの?」
その疑問を持ったのは、5歳の誕生日を過ぎた頃のことだった。
母を持たぬ子供がその疑問に辿り着くには少々年齢を重ねていたのかもしれない。けれどもそれには相応の理由があった。僕には生まれた時からレンブラント爺や乳母代わりにもなるメイド達がいて、屋敷の中で何不自由なく甘やかされて育っていたからだ。だから、世間一般で言う母親という存在についてはその時まで何一つ知らなかった。
「坊ちゃん。それはですね……」
その時爺は、もっともらしい理由をつけて母の不在について語っていたような気がする。けれども、例え内容がどれほど立派なものであっても僕には母親がいないという事実だけは変わらないことだった。
その頃の僕は、ヒューゴという僕の父親の指示によって厳しい教育が始められていた。剣技の稽古、ダンスの踊り方、話術、ピアノに馬術、果ては帝王学に至るまで様々な教師が一日中僕に貼り付けられていた。
頑張ればきっと僕を見てくれる。厳格な父が褒めてくれる未来をその頃の僕は信じ切っていた。だからどんなに辛い稽古でも必死についていった。あの頃の僕には肉親と呼べる存在は例えどれだけ無関心であったとしても、ヒューゴただ一人だけだったから。
でも、ある日。どうしても剣の稽古が嫌になって、預けられていた屋敷から街へ逃げ出してしまった日。僕は女の人に手をひかれて楽しそうに歩く、同じくらいの年の頃の女の子を見かけた。
ただ純粋に傍にいる存在に甘えきっている女の子の表情。柔らかく微笑みながら愛おしげに女の子を見つめている女の人。そんな二人の関係が僕にとっては酷く眩しく映ったのは、当然のことだった。
僕の傍にはいない『おかあさん』。『おかあさん』がいたなら、僕もあんな風に笑えるのかな。憧れはやがて羨望に変わっていった。その頃はたまたま訓練の都合で僕はノイシュタットのレンブラント爺のところに預けられていたから、時折こっそり屋敷を抜け出しては街にやってくる一組の親子を追いかけるようになっていた。
その親子は一週間に一度、毎週日曜日の決まった時間に街へやってきた。僕がその法則に気がついたのは、日曜決まった時間に稽古へ行かなければならなかったからだ。そのことが分かってからは僕は稽古の時間をずらして、親子の後をこっそりついていった。
親子はいつも母親と娘の二人っきりだった。一度たりとも父親の姿を見かけることがなかったのが、僕が二人の後を追い続けた一つの要因だったのかもしれない。母親と娘だけの欠けた親子関係。そのいびつさが僕にとっては新鮮で憧れだった。
父親のことを知ってかしらずか、女の子の方はいつも楽しそうだった。まるで母親と街に来るとこが楽しくて仕方がないと言った様子で、街にいる間はくるくると大きな瞳を回して、一つ一つ母親に尋ねたり、あるいは知っているものを教えたりしていた。そして母親はいつもそれを優しい眼差しで見つめて、小さな指を握り返していた。そんな二人の姿がいつしか僕の理想の親子になっていたのは、ある意味当然のことだったのかもしれない。
だから、その親子が街に来る頻度が徐々に少なくなっていくのが悲しかった。
毎週日曜の決まった時間。その法則が崩れただけなのかもしれないけれど、今まで決まったように来ていたこともあってか、どうしてもそんな風には考えることが出来なかった。徐々に街から遠ざかっていく理想の親子。僕に希望や羨みだけ残して勝手に去って行ってしまうのか―――あれほど夢中になっていたというのに、いつしか僕は二人から遠ざかっていくようになっていた。
けれども、レンブラント爺の屋敷から僕の家に帰ることになった一週間前。
その日は日曜日でもなんでもなく、普通の日だったことを覚えている。いつもと違う日、違う時間に、いつもと違う道で銀の髪の女の子が一人ぼっちで立ち尽くしているのを見つけてしまった。
困ったように眉根を下げて、誰かに助けを求めるような眼差しで、頼りなく身を縮ませている小さな小さな女の子。その隣にいるべき人がいないことに気がついた時、僕の体は勝手に動いてしまっていた。
「……おい」
理想の親子の片割れに声をかけるという緊張からか、喉がカラカラになる。自分自身こんな行動力があることにびっくりしていた。でも出てしまった以上、やるしかない。
女の子の前でカッコ悪いことをするのが何だか恥かしくて、咄嗟に口から飛び出したのは場に不具合な強がりだった。
「通行のじゃまだ。通路をふさぐな。」
「ええと……だれが?」
頼りなく揺れていた瞳がきょとんと点になった瞬間、僕は自分の失言に気がついた。
違う、ここはおかあさんはどうしたの?はぐれてしまったの?そう聞くべきだったのに。
「……お前だ」
もう引っ込みがつかなくなっていた。一度こんな風に言ってしまってから言い直すなんて、そんなカッコ悪いことなんて出来ない。
来るなら来い!自分ならここは怒鳴り返すところだ。案の定女の子は怪訝そうな顔をした後、僕の話が分かったのか顔色を真っ赤にして何かを言い出そうと口を開いた。
けれど、その唇から罵倒の言葉が飛び出すということはなかった。
一瞬何かを考え込んだ女の子は、次の瞬間にはその大粒の瞳からぽろりと光る雫を落として。
「…………あ…れ……?」
それには女の子自身の方が驚いているようにも見えた。
ぽろぽろと零れ落ちていく大きな雫を拭おうともせず、女の子は不思議そうにあたりを見渡した。そうしていつも無邪気に笑っていたはずの女の子は言ったんだ。
「………ありがとう………」
頬を伝う涙が春の優しい日差しを浴びてきらきらと光っているのが印象的な………とてもとてもキレイな笑顔だった。

それが全ての始まり。
知らない間にその笑顔に恋をしていた僕の―――とのいちばん最初の出会い。



「ジューダス?」
声をかけられて、ようやく僕は我に返った。
手の中にある埃まみれの写真立て。一晩の宿のつもりで入った空き家で、一体誰がこんなものを見つけてしまうと想像できるだろうか。記憶の中と変わらぬ笑顔で微笑んでいるの写真は、否が応でも遠い過去を呼び覚ます。レクシアに声をかけられなければ、恐らく暫くは固まったままだっただろう。
「……すまない、ぼんやりしていた」
何気なさを装いながら写真立てをチェストの上へ戻す。そうして顔を上げれば、写真の中の顔をそのまま成長させたものが目の前にあった。心情的にあまり良いものとして捉えられないのは……この際仕方がないだろう。ここまでそっくりすぎるといっそ気味が悪くすらも感じる。
「先に最後の部屋を見てきたけれど、あっちは書斎だったわ。たくさん本があるだけで死体の心配はいらないみたい」
「……そうか」
「これで安心してロニを呼べるわね。あ、でも寝れそうな場所っていったらリビングかこの個室くらいかしら」
「スペースが狭すぎるからな……。リアラとレクシアがこの個室で、僕達はリビングで雑魚寝でギリギリだろう」
「じゃあこの埃をどうにかしなきゃね」
言うが早いか、部屋の窓にレクシアが手をかけた。
「……あら?この鍵どうなってるのかしら……?」
「ああ、これは旧式の鍵のようだな。ここはこうすれば開く」
「ありがとう、ジューダス。助かったわ」
色褪せた木枠が軋んだ音を立てて口を開く。恐らく長い間開かれることもなかったのだろう。窓から流れてくる白雲の尾根の湿った空気が、埃っぽい室内の空気を浚っていった。
「せっかくだから全ての窓で換気をしましょう」
そう言って白い軌跡を残して部屋から出て行こうとする後姿。その姿が、銀色の後姿を思い起こさせる。
が住んでいた家。母親と二人で暮らしていた、小さな僕の理想の家族だった二人だけの城。それがこんなにも小さなものだっただなんて。狭い室内の天井は案の定低く、恐らく2m程度しかないのだろう。それでも小柄なあの親子にはぴったりだった空間に違いない。線の細い母親と、その傍でくるくると楽しそうな笑い声を上げて走り回ったの姿が部屋の中に浮かび上がる。いつ見ても幸せそうだったあの親子は、きっとこの部屋の中でも数え切れないくらい幸福な時間を過ごしたに違いない。
あの頃に比べればもう随分年を重ねてしまっていたし、今更妬んでも仕方がないということは分かっている。それでも幸せの香りが色濃く残っているこの家に居心地の悪さを感じてしまっているのは、不可侵の領域に足を踏み入れてしまったことに対する罪悪感か。
一つ、また一つ窓を開け放っていくレクシアの姿は――――もうとは重ならなかった。
誰よりも母親を想っていたあの娘が、これほど無頓着に二人だけの領域を壊していくはずがない。大切な思い出が詰まったはずのこの場所の空気を、全て洗い流してしまおうだなんて絶対出来ない。それが僕がと過ごした時間の中で知った、彼女の本質だった。
『………坊ちゃん』
「いいんだ、シャル。もう分かった」
古びた写真立てをもう一度手に取る。逡巡したが、結局その中から写真を抜き取ることにした。
「………?……」
写真立てを開いてみると、どうやら写真だけ入っていたわけではないらしい。とその母親が笑いかけているその写真の裏には一通の便箋ともう一枚の写真。それを手に取ったのは、微かな不信感からだった。だからまさか、こんなことが記してあるだなんて一体誰が思うもんか……ッ!!
「ジューダス!!?」
「ちょっと、おい!」
レクシアの言葉でようやく室内に上がりこんだらしいカイルやロニの声はこの際どうでもいい。それよりも今は確かめるべきことがあった。
「おい、レクシア!」
「え、あ、はい!」
「書斎はあっちだったな!」
「はい、そうだけど……何か…?」
「悪いがこの家で調べ物をする必要が出た。暫く書斎に篭ると思うが僕のことは放っておいてくれ」
「ええ!?どうしたの、ジューダス!」
「………分かったわ」
「すまない、頼んだ。レクシア」
「私には良く分からなかったけれど、専門書みたいなものが書斎には色々あったわ。多分、書類とか大事なものはあそこにあると思う」
「レクシアも!?何かあったの!」
「あなたの知りたいことが分かったら、後でいいから必ず皆に教えてね。……あなたが持っていたあの写真のことも」
「……気が付いていたか」
「ちらっとしか見えなかったけど、あんなに食い入るように見ていたら何かあるって思うのが普通よ」
「分かった」
「約束よ」
リアラが困惑したようにレクシアに説明を求める声が背後から聞こえる。けれども今は、そんなことよりも先に確かめるべきことがあった。
恐らく、は気が付いていなかった。そしてヒューゴは間違いなく知っていたに違いない一つの真実。今はこの母から宛てられた最愛の娘への懺悔の手紙こそが―――闇に葬り去られたの死の全てを解き明かす鍵になるに違いなかった。



愛する私たちの娘、

あなたがこの手紙に気が付くのは一体いつのことになるでしょうか。
私がいなくなってすぐのことかもしれないし、ずっと先のことかもしれません。もしかしたら手に取ることもなく一生を終えるかもしれないとも思ったけれど、それでも構わないと私は思っています。
あなたが幸多い人生を歩めるなら―――…そう思えば思うほど、私はこの事実を秘めたまま墓まで持っていくべきなのかとも悩んだのだけれど、全てを知っている人間が私以外にももう一人存在している以上、あなたにその事実が伝わる日がいつかくるかもしれません。だから私は本当の出来事を、他でもない母である私から伝えるべきだと思いました。
あなたがこれを読む時、どんな気持ち、どんな状況で読んでいるのかは私には分かりません。今からあなたに伝える話は、あなたにとってとても辛く、悲しい話になるでしょう。けれど、これだけは知っていてほしいの。あなたは望まれて産まれてきた。私たちタナットとステアにとって愛すべき娘であるということを―――――



そして、ステア=からの手紙は一つの真実を解き明かした。
薬の力で辛うじて生き永らえている命の中で、彼女が想い続けていたのは夫であるタナットのことでもなく、親友のクリスのことでもなく、ただただ娘の心配だけだった。
どれだけのことを愛していたのか、残してゆく幼い娘の将来の幸せを願っていたか。言葉の節々からも母の娘への深い愛情が溢れて、零れて、もうこれだけで胸がいっぱいになるような―――そんな手紙だった。
『………ちゃん……』
シャルの言葉は震えているようにも聞こえた。肉体を持たぬソーディアンでも、感情が揺れれば言葉に出る。一人の人格を持ったシャルが何を思って彼女の名を呼んだのか、その気持ちは手に取るように分かるからこそ辛い。
『この事実をちゃんは………知らないで逝ってしまったんですね……』
「……馬鹿な奴。馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、ここまで馬鹿な奴だったとはな」
『………だからヒューゴの愛人だなんて……ちゃんらしくもない………!……うう……ヒューゴの奴……!!』
「事実も意図を持って歪めれば、悪意に変わる。……人一倍悪意に対して敏感な奴だったからな」
『……あああ…!!どうして、こんな……何も知らなかっただなんて……!!』
【高純度のレンズの抽出方法と合成】、【レンズの起源】、【結晶体の制作方法】、【分子の分解と結合】、【ベルクラントのメカニズム】、その他様々な書物。本棚の裏側から見つかった夫婦著書の様々な作品も、全てを知った今見渡してみれば、二人がどれほど娘を愛して生涯を捧げていたのか痛いくらいによく分かる。
タナットとステアはお互いのことを愛し合っていた。
だからこそ娘が愛おしかった。
許されぬ手段を持ってしても、娘を生かしてあげたかった。
家族を思う気持ちが全ての悲劇の始まりだったなんて、どれほど残酷な事実なのだろう―――
「………
陽だまりみたいな笑顔が、胸の底で小さく浮かんでは消えてゆく。
拒絶しても振り払っても、へらへら笑ってでも時に傷ついて、それでもやっぱり立ち直って、いつも傍にいて笑っていて。だから、あいつは大丈夫だなんて根拠のないことを思っていた。
でも違ったんだ。本当はもっと臆病で、傷つきやすくて、でもそんな痛みを隠しながら、本物の気持ちを押し殺していることに気が付かないままずっとずっと生きてきた。
「…………死んでいるなんて、考えたこともなかった」
自分を正当化することに必死になっていたのは僕の方だったんだ。今、改めてその事実を突きつけられた。その重みがずっしりと体全体に圧し掛かってきて、息が苦しくなる。
の母親は元気で、二人はずっと幸せな親子でいるんだって………そう思い込むことで、不幸比べをして……勝ったつもりでいたんだ」
気づかなかった訳じゃない。本当はただ、目を瞑っていただけ。
「薬を買いに行ったって………あの薬が特別な薬だってことは袋を見たら分かるはずなのに……っ………ただの風邪薬だろうって」
毎週日曜日、決まった時間に調合されている薬。そう考えれば辻褄は合っていたはずなのに、羨望で眩んだ瞳はそんな簡単な事実でさえも見抜くことが出来なかった。
段々と時間通りに来なくなった親子を恨んだ。でも、本当は違う。時間通りに来なくなったんじゃなくて……二人は来れなくなっていたんだ。母親の病気が進行して、薬を取りに行くことが出来ないほど衰弱していったんだ。そして森の中の一軒家で住んでいる親子を助けてくれるような人は周りにいなくて――――だからは、あの時………。
『会いたい人がいるの』
ズキン、と胸が痛んだ。
もう18年も前のことになってしまった出来事。オレンジ色に熟れ切った太陽が照らす、一日の中の僅かな時刻。あの時はまだ会ってまもなく王との謁見があって、ぐったりしたが慣れない環境に愚痴を零していたような気がする。そんな時が旅をしているその理由について、ふとシャルが訊ねたんだ。
夕暮れ時の深い影が長い睫にも影を落としていて、いつもは幼く見えるがその時は酷く大人びたように見えたのを覚えている。
『見つかるかどうか、はっきりしないんだけどね』
そうだ、は言ったじゃないか。ノイシュタットで放りっぱなしの家に帰るって。長い長い旅で不在にしていた家を手入れすると。この家を見守ることを確かに口にしていたじゃないか。
でも、そもそもなんでこんなにも大切だった家から離れることになったんだ……?
『随分と昔に会った男の子なんだけど、顔とか覚えてないし』
そうして、少しだけはにかみながら笑って言ったの言葉。あれには一体どれほどの重みが込められていた?……考えを逸らすな。あいつの旅の理由は何だった?
次の瞬間、思い出したオレンジ色の笑顔と言葉にガツンとした衝撃が走った。
『でもね。絶対に、見つけるんだ。―――だって、私、その人にまだ『ありがとう』って言ってないから』
……ああ。そんなの真摯の言葉に、その後僕は何て言ったんだっけ……。
「おまえは過去を偶像化してるに過ぎないんだ。なにがありがとう、だ。……馬鹿が」
自然に言葉が出てきた。何が馬鹿だ、だ。本物の馬鹿野郎こそここにいるじゃないか。あの子の大事にしていた思いを滅茶苦茶に踏みにじって、蔑んで、そうして突き落とした後に事実を声高に宣言してやった大馬鹿者こそがここで笑っているんじゃないか。
馬鹿な女だったと。騙されて、マリアンを守るための礎となって、僕の欲求を守るためにあの子は一番大切だったものを理想の人に完膚なきまでに叩き壊されて。
………くそ、くそ……くそ……っ……!!!
『……坊ちゃ「うるさい!!黙れ、シャル!!!」
下手な慰めこそ、僕には不必要なものだった。
だっては、恐らく僕が手を引いて薬を買いに行ったあの日からそう遠くない内に、唯一の身内……それもあれほど無心に信頼していた母親を亡くしてしまったのだ。その後、小さな子供がどうやって過ごす?父の愛情にこそ恵まれなかったけれど、屋敷で何不自由なく過ごすことの出来た僕と違って山奥で過ごしていた身寄りのない子供だぞ?あいつのせいで身を隠すしか許されることの出来なかった家族だぞ?一番近いノイシュタットの街こそ、孤児が住むには今よりもっと劣悪な環境だったと聞く。そんな所に、あの容姿の子供が叩き込まれたら……結末なんて簡単に想像が付くじゃないか!
それでもから不幸の香りを感じなかったのは、きっと彼女が子供のように純粋でまっすぐだったからだ。はち切れそうなくらい辛い体験をしながらも、涙をこらえて、時に自分を誤魔化しながらも笑い続けて、そうやって一つ一つを乗り越えながら夢を追いかけ続ける姿の上辺だけで判断したから、あいつが不幸を背負って生きているなんて当たり前のことにさえ気付けなかったんだ。自分こそがこの世の不幸をかき集めたような顔をしていたから、同じように痛みを抱えながら人も生きているって事まで考えが至らなかったんだ。くそ…くそ……っ!!
ぎんのかみのおんなのこ。その子の手を引けて歩けたことが誇らしく感じていた瞬間は、確かにあったはずなのに。どこでどう掛け間違えた。
マリアンを守るために僕は全てを裏切った。そしてそのことに後悔なんて一つもしていないけれど………最初の間違いだけは。ヒューゴの前にを連れてきてしまった一番初めの間違いだけは。
「………すまない」
写真の中の人間に語りかけても意味のないことは分かっている。けれども、謝らずにはいられなかった。
「あなたの願いを―――僕が壊してしまった」
ステアの願いはが幸せに生きること。
そのためには、の存在を親友の夫に気付かれるわけにはいかなかった。親友の第一子の殺害を命じ、夫であるタナットを事故死と見せかけて殺した18年前の騒乱の張本人、ヒューゴ=ジルクリストという男にだけは絶対に知られるわけにはいかなかったのだ。
だっては――――タナットとステアの愛した一番の成果品むすめだったから。
その想いすらも、僕が踏みにじった。やステアだけじゃない。僕が裏切ったこの世界では僕のことを恨む人間はいくらでもいるだろう。例えばベルクラントで命を落とした人、騒乱の混乱に巻き込まれた人、家や財産を失った人。……そして友人や愛する人を亡くした人。
でも、これこそが僕が背負わなければならない罰だった。裏切り者と冠する僕が本当に知らなければならない痛みだった。
「……………っ…………」
今更ながらに、本当に自分は大変なことをしてしまったのだと思い知る。
胸が痛くて、痛くて、堪え切れない重みに潰されてしまいそうだ。それでも、僕のこの痛みはの感じたものに比べればきっと生易しいものに違いない。唯一の心の拠り所を張本人に破壊され、生まれた意味すらまったく違う意味で吹き込まれ、全ての人間を敵に回し、それでも縋らなければならない親の仇。それは一体どれほどの痛みを伴ったのだろう。あれほど純粋で無垢な心を持っていた女の子だったのに。
『………僕も、一緒です』
部屋の隅で力なく項垂れる僕にかける声の主は、いつだってシャルだけだった。
『知っていながら何も言わなかった。僕も同罪だ』
だからこの罪は坊ちゃんだけのものじゃない。僕も一緒に背負うべきものなんです。
たった一本きりになってしまったソーディアンの声は、静かな室内の中でよく響く。薄暗い室内の中に散らばった限りない愛情の欠片。それを痛いほど目にしながら、どうにもならない無力感で僕は小さくなった。
こんな想いをするのは――――生き返ってからは初めてのことだった。



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09.5.3執筆
09.5.17UP